DDと単推しと推し変

確実に感化されてるからなんだけど、私もDDと単推しについて何か書こうかなあとは思ってはみても、中々それが文章にならないのが現実で、だからまあまとまりきらないとは思うんですが、思うことをつらつらと。
私が今もっとも好きな子が仲谷明香さんなんだけれど、いつから私がこれほどまでに彼女を好きになったのかは、ちょっとわからない。AKBを好きになって間もない頃、私は必死にmixiでAKBの啓蒙活動ではないけれど、100%自己満足な文章を書き散らかしていて、その中で、仲谷のことを書いたことがある。詳しい内容はあまり覚えていないのだけれど、ピンクのフレーム時代の、本当に中身と寸分も違わないヲタク少女の風貌をしたB2ndの頃の彼女の公式写真を貼り付けて、「どうして可愛いのか説明できないけど、この子が可愛いんだ」と書いた。それは別に仲谷に限った話じゃなくて、このようにAKBには何がどうなのかわからないけれど、私を夢中にさせる何かがあるのだ、とそのように話が展開し、でも最後に私は叫んだ、なかやん、かわいい!と。思えばその頃から私の中の仲谷への思いが芽吹いていたのかもしれない。が、それはでもやっぱりDDである範疇だったんだろうと思う。メンバーを覚えるたびに私の中に彼女たちの残像が増えていって、時にはひとり部屋を与えられる子がいたり、いつもふたりで一緒に遊んでいる子がいたり、輪の中に入れずにやきもきしている子がいたり、私の中でさまざまな人間模様を展開させながら、彼女たちは私の中で彼女たちの像を形成していった。
ハロ時代から私はDDだと言い続けてきた。吉澤さんからヲタになった私はその対象を亀井さんに移し、そしてむっちぃが私の心を占拠しはじめ、それと同時に大島優子さんが彗星のように鮮烈にその軌跡を私に残し、それを認めることを恐れた。あんまりそうだと思われなかったかもしれないが、実は結構悩んだ。何に悩んだのか、はっきりとはわからないのだけれど、たぶん、今までの自分の好きが否定されるようで怖かったんだと思う。「その程度だったのか」そう思われたくなかった。私は本当に心の底から彼女たちが好きだったのだから。それは自尊心からなのか、それさえもわからないけれど。他人は他人でどうでもいいと思うのだけれど、でも、一つの思いを貫き通すことにこそ美学があるようで、また、そういった愛が一番偉いような気がどこかでしていた。だからこそ(というと矛盾しているかもしれないけれど)私はDDだったのかもしれない。DDに推し変は存在し得ないからだ。ひとりの人に愛を注ぐことを最も尊いことだとしておきながら、その対象相手を変える。それはもっとも不誠実なことなのではないか。そう思っているんだと思う。公私共に認めるDDだったころ、私はよく口にしていた。みんな好きでその中でも特に好きな人がいる、それってつまり好きに好きが重なった状態なわけであって、断じて単推しにその愛が負けるわけではないと。そうなってくると、単推しの愛が最強だと実は思っていたのかもしれないと書いたところとも矛盾してくるんだけれど、もうはっきり言って何が何やらわからない。自分がこのような状況になってみて、一番驚いてるのはたぶん私だろうと思う。誰かひとりを思うことはとても楽しい。みんなを思うことだってとても楽しい。単推しと呼ばれることは実は不本意なんだけれど、でもまあやってることはそうなっちゃうのかなあと思わなくもない。亀井さんからゆうちゃんに推し変したときに、私は、はっきり「推し変」という言葉を受け入れたつもりだったのだけれど、ゆうちゃんから仲谷に「推し変」するときもやっぱり悩んだ。「推し変」という言葉はあんまり使いたくないものだけれど、でも、私は今、仲谷を一番応援したいと思っているから、やっぱり言葉的にはそうなるんだと思う。当たり前のことなんだけど、なんか言いたくなっちゃうのが、「推し変」したからといって前の人を嫌いになるわけではなくて、単推しだからといって他の子がそんなに好きじゃないってこともなくて、DDだからと言って、ひとりに注ぐ愛が劣っているというわけじゃないってこと。その人のタイミング、私には私なりのタイミングがあって、いま誰に一番心を動かされているか、誰の心を動かしたいのか、自分の気持ちに素直にやってくだけかななんて思う。推しは変えるものじゃなくて増やすものだとヲタからアイドルに成り上がった大分娘が言っているけれど、その考えには大いに賛同。DDにも単推しにもいい風に解釈を与えられる素晴らしい言葉だよね。だから私は矛盾してるんだろうけど、これからも「DDで仲谷ヲタです」と言い続けて行きたい。単推しとDDのいいとこ取りしちゃって、愛をふりまきましょうってな感じ。それが矛盾していようとも関係ないし。好きな人に好きだって言えるなら、それが一番だし。